『コレクターと画家と美術館と』
       ?作品探索のお願い

アトリエに籠っての制作の折々、美術作品なるものが、或いは美術館の存在が、本当に人々の暮らしに必要なものかどうか、と反芻しながら考え込んで居ることがあります。

 
我々一人一人が命を抱えて生きるということに欠かせない情緒の、そして暮らしの中の優しさを育む為の媒材、起爆剤として美術は大きな意味を持ち、美術館はその訓練の場であり生活習慣を取得する場として絶対的に必要な存在なんです。(この問答は皆様と直接お目に掛かれた機会に、お互いの考えをもっと深く掘り下げて話し話し合ってみたく願って居ります。)
 さて、美術も美術館も我々の命に、暮らしに大いに必要なものと位置付けたとして、その価値を一般市民に結び付け、習慣的な交流として成り立つ方法をどのように試みるかが問題です。立派な作品、素晴らしい展覧会だったとしても、単に並べました飾りましたというのでは、なにかお高いところに澄まし込んだ美術館として、一般の暮らし向きから遊離した別世界という事になりかねません。
 いささか前口上が長くなりました。
 今回、ふくやま美術館が私の展覧会を'97年・初秋に企画して下さると言う事で、ならば前々から密かに念じていた市民参加による、地方美術館として意義ある企画を考えて頂きたいと大変我儘な注文を美術館にお願い致しました。
 吾が郷里『備後』、少し輪を広げて『瀬戸内』への愛着、思い入れには熱いものが、今も変わらずふつふつと私の想いの中にあります。この想いをどんな形で故郷の皆様にお披露目出来るだろうか、と考えたりしています。そして、その一つの案として、高橋 秀の作品を単なるテーマ(題目)にして、瀬戸内に散らばる可能な限りの作品を探し出し、その収蔵者その人達こそが主人公の展覧会、即ち古い一点の作品所持者も、数々のコレクターと共に市民レベルで直接美術館と関わって頂く夢を計画しております。
 作品所持者として誇らかに『ふくやま美術館』の壁に貴方が所持される作品を初めとする全作品を提示して頂きたく願っております。或いは二段、三段掛けの展覧会なるやも知れません。が結構ではないですか。気取り澄ました美術館から市民主催の美術館に塗り替え出来るとしたら嬉しい事です。
 と、いう次第で、作品探索の資料集めの作業が始められました。何卒ご協力の程、お願い致します。
 お知り合いの方なぞに、それらしき作品がございました場合も、何卒ご連絡頂けます様お願い致します。
 皆様のご健勝を心からお祈り致します。そして、お目に掛かれる日を期待致しております


高橋 秀
ローマ、1995年5月

「高橋 秀・画家とコレクター」展
(ふくやま美術館)図録より