エロス−極限の赤と黒

 ここベルカントの国、イタリアではテノールやヴァリトンの歌手達から、喝采の晴れ舞台について、折々お喋りを聞く……本番3〜5週間前から好きなワインも何も断って、ひたすら当日に向かっての体調、声調づくり……いざ舞台に立ったとして、出だしは細心にセーブし、最後の歌曲を最高潮に持って行けた緊張に満ち満ちた果ての喝采の一瞬こそ、生きている喜びを全身全霊で受けとめられる感激……これはやめられない、と。
 美術家にとっての展覧会……これに似ているようで歌い手の晴れ舞台とはいささか異なるよう。作家の栄光は、晴れ舞台と思われよう展覧会は既にない。言ってみれば、それ以前の、孤独に沈潜し切っての制作の明け暮れに、目下のフォルムを超えて明日のイメージが垣間見通せた時。そして、それを掴み込んで、新たなる宇宙空間の創造をなし得たとき。喝采も声援もなく、唯々一人だけの熱い静寂の渦巻きを伴って。
 しかし、この栄光は、晴れ晴れしき記念碑と奉られるのではなく、単に次なる空間への踏み台として、僅かな一瞥のあと、一つの通過点としての記録とどめられるにすぎない。言わば、血のたぎりを傾けて、悠久を憧れ、絶対の手応えにうち震えながら、遂に成し得た抱擁の最中に、もう、もう一つ向こう側の朧なるカタチに確かな温もりを求めはじめる。
 晴れがましくある筈の展覧会、といって、そんな一瞥だけで遠ざけた作品たちの中に堂々と開き直るも気恥ずかしく、今更愛情深げなツラさげて過ぎしことごとに恋人とする気性でもない。当然、作品たちも作家の手を離れ、一人歩きを始める。折々には……“元気出せよ!”“精一杯、生にトライして”“もっと自由に翔け”などと人々に呼びかけているような気分の、そんな作品たちに出会ったりもする、けれど。
 いずれにしろ、昨日と今日の狭間に押し込められて、想いは既に明日に向かっている……妙にチグハグで身の置きどころないなんとも物淋しい時間と場所、これが私にとっての展覧会会場。
 お面被ってテンツク、祭り囃子に浮いて浮かれて騒いでみたくもあり。


高 橋 秀
ローマ 1989年 初夏

「高橋 秀展−エロス・究極の赤と黒」
広島市現代美術館/京都国立近代美術館/倉敷市立美術館
1989年カタログより