目下の、私の制作願望の根源は、色即是空、空即是色にあり、と申せばキザでしょうか。生と死のスペースに、同質同量のエロスを重ねます。生←→死は直線上に並べ置くものではなく。環上の対極位置に設定されるもので、そこに日、月、地、空、春夏秋冬、昼夜明暗、発芽開花結実落葉etcを重ねていけば、必然的にこの環は回転上昇を続けて行きます。これは宇宙の運行法則図であり、全思想の見取図と読めます。
この悠久の運行の中に、“漂泊”する想いは、エトランゼとして、異国に暮らす根無し草の不安感への開き直りによる体得と言えましょうか、生活感情は妙に空白であり、情操ハングリーに居座っていると申せましょう。
ここにはヒステリックな叫びもあがきも通用せず、流れるままに時と状況(time + Space)の運行に身をゆだねての、言ってみれば自己消去的な感情抑止志向が芽生えます。この流れるままに自己を客体化することで、環の存在とその上昇運行が見えはじめると同時に、己の領有する空間がどんどん拡がります。この無限空間に漂泊、浮遊する自由感はえも言われぬものです。
これは、そのまま現在の私の制作意図でもある訳で、単的に言えば、未知空間への生産的渇望(エロス願望を含めて)を提起する作品を己自身に期待しているわけです。
壮大にしてフレッシュ、息吹、弾力、ふくらみイメージを、如何に視覚的フォルムとして明快化すべきかの追求は、必然的に作者と作品の間に坦々たる距離を要求します。制作作業の終了と同時に、この両者の関係は、完全に浮遊したものとなり、作品は確立(或は孤立)した単なる物体としてのフォルムが存在するに過ぎません。
重要なことは、この作品という物体が鑑賞者との関わりによって、その意識下の潜在イメージを触発し、生活者としての彼自身の新しい意識と、未知のオルガズムを掘り出す起爆剤たり得るかどうか、と言うことです。
幸いにして両者の関わりによって、鑑賞者が彼自身の貴重な意味とイメージを見出し得たとすれば、この時点で、はじめてその意味とイメージ価値がそのまま作品の意味と価値として成り立ち得たと言えるのです。
今一つ、作品のタイトルについて。
私の場合、それは即興として制作後に付記するもので、ここでも作品の意味や解釈に全く何の関わりも持ちません。
言えることは、それぞれのタイトルは、私の生活哲学の範疇の語彙から引き出されたものではあると言うことだけです。
文字にも言葉にもなり得ない部分を、私なりの制作理論化で一つの確立した小宇宙として作品を創る喜びをどう説明すべきなのか?生の実感、エロスの饗宴、いや、やはりここにも言葉がありません。
この喜びを誇らかに享受し得られたと確信が抱けたのは、僅かここ4〜5年のことなのですが?。
高橋 秀
ローマ 1981年 春
「高橋 秀 新作81」展
北九州市立美術館/広島県立美術館 カタログより
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