N兄へ

貴兄は芸術家と言い、私は絵師だと言った記憶があります。これは単に嗜好の異なりに過ぎないのかも知れません。が時代社会に、民衆に、より密着したい私の意識願望が絵師と呼ぶことを選ぶと言えます。

 美術史的教養も理論も、はなはだ希薄な私ですが、中世はジョット、フラ・アンジェリコ、そしてダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロにしたところで、言ってみれば宗教的教会おかかえ絵師であり、熱狂の画家と言われるゴヤにしろ、ヴェラスケス同様宮廷サロン絵師と言えましょうし、又狩野派、琳派の人々も絵師と呼ぶ方が私には感覚的にぴったり来るのです。ここで私の言いたいのは、宗教、宮廷、サロンにしろ、おかかえ云々と言うことではなく、問題にしたいのは、それぞれ表現様式の世界で、その作家が属した時代社会に常に密着して居た系体を言いたいのです。その作業作品が時代社会から浮き上がって居ない状態を言いたいのです。決して芸術家然としてではなく―。当然、それぞれの時代の作家として、技術的に、精神的により崇高な表現を求めての苦悩や迷いはあった筈だし、孤高な芸術する心もあったでしょう、が常に周囲社会との関連を維持しようとするところに絵師たる意義を見るわけです。

 もちろん、こんな中世地域社会のあり方に準じて、時間、情報、思想の超拡大化された現代社会を規定するなど全く不可能なことだし、又絵師的態度でこの混迷の現代を思考表現しよう等と願うこと自体大変な矛盾であることも重々承知して居ります。が、それでも尚、社会とのかかわりあい意識に於て、絵師と呼ぶことに私自身強烈な願望を抱いて居るのです。

 貴兄は又「君は、(或いは君の作品だったか)あまりに割り切り過ぎる、もっと悩みがあるべきだ云々」とも言っていましたネ。この言葉は私をニヤリとさせたのです。少なくとも私の意図するもの(作画思考)を、私の作品を通して直截に貴兄に伝達し得た裏付の言葉と言えるのでは……と。

割り切って了って居るのではなく、懸命にアッケラカンと整理づけようとして居るのです。これで私は大変なハニカミ屋なのです。もがき、苦悩、迷いは、可能な限り作画行為で、制作過程で濾過すべく精一杯心がけて居るのです。己の混濁をそのまま人様に見られることに強烈な恥辱を覚える性格なのです。♪顔で笑って心で泣いて?一寸、チガウカナ?

 同じ夜「絵師という君が何故イタリア等に出向いた?」等とも質して居ましたね。幾人かの方々から同じような質問を度々受けました。もっとも貴兄の問いは全く別の意味でのことだった筈です。多分に一九六三年渡伊以前の仕事と、現在の仕事への推移も含めての問いだったと思います。

 イタリアを選んだのは偶然に過ぎません(ルチオ・ファオンターナの空間派に多少のあこがれはありましたが)、又「逃避です」と人々に答えて居た程単純なものでもなかったのです。

 その昔、私の一人の画家として、何んとか社会的に認められたい、世に名を高めたい等と言った願いも持って居ました。そしてたまたま安井賞などという大変うっせきした窮屈な賞を貰った時、わずかながらも認められた、と俗物的くすぐりを覚えたものでした。がその時期既に単に表面的な情感にすがった一人よがりの絵作りのむなしさ、造形性の稀薄さを寒々と覚えはじめて居たわけです。
 ?空間に呼応するおおらかなヒューマンに根ざした強力なる造形?これがその時点で本能的に抽出した私の仮説であり、日本脱出の目的だったのです。
 薄っぺらな情熱、情感ムードの拒否作業は、いつしか東洋否定、自己否定にまで発展していた悶々の年月、当然明日の生活資金にも汲々とした時期でした。そして、東洋的情感を拒否して、己ではやっとふっ切れたとする作品群が、ヨーロッパの人々の眼には、まさしく東洋の色であり東洋の造形であると映じ指摘された時、世に言う?ハラリと目のウロコが取りのぞかれた?おもいがあったことを記憶して居ります。
 やれやれ下らぬお喋りに終始しました。どうにも書くこと喋ることが苦手という私の我が儘をお判り頂けたでしょう。書く、喋るということは私にとって、つい、思考することよりはみ出したり、うそになったりする恐れにつながるのです。只信じて言えることは、現代社会を、人間性を、本能的、感覚的にとらえての仕事の体系が、私の思想表明であると言うことです。
 東京疲れをいやす暇もなく来春三月、ローマの個展の為の制作にかからなくてはならない様です。
 くれぐれも御大切に、御健闘を祈ります。



高 橋 秀
ローマ 1972年12月2日
「現代の眼」
東京国立近代美術館ニュース218 1973年1月号より